観た映画『天才スピヴェット』
『アメリ』の監督の最新作。本編のなかで、忘れられないセリフがある。
Beware of mediocrity. Mediocrity is the fungus of the mind.
気をつけて。凡庸さは、心のカビよ。
ヘレナ・ボナム・カーターが演じる風変わりな母親が、天才的な頭脳を持つ息子に言うセリフ。
Mediocrityという単語にひっかかったのは、私という人間に最も影響を与え続けている映画のひとつ、『アマデウス』に頻出する単語だからだ。
『アマデウス』は、神から愛され、音楽の才能を与えられた天衣無縫なモーツァルトと、彼と同じ時代に生き、モーツァルトの才能を目の当たりにし、自分の平凡な才能に打ちのめされる作曲家、サリエリの話だ。
サリエリは神に仕え、神を讃える音楽をこの手で作りたいと熱望し、作曲に心血を注いだが、突如現れた寵児モーツァルトに嫉妬の炎を燃やす。サリエリにとって我慢ならないのは、モーツァルトに与えられた才能が本物であることを、自分だけが認識していることだ。
自分の凡庸さを認めたくない虚栄心と、これほどまでに神に愛を捧げている自分ではなく、下卑た鼻持ちならない小男に天からの恵みが与えられていることの絶望、そして、その恵みを正確に認識できているのがこの世で自分だけであるというジレンマが、サリエリを狂気に走らせる。
映画の終盤で、長い懺悔を終えたサリエリは車椅子に乗せられ、朝の光に溢れた精神病院の廊下を去っていく。廊下には精神を病んだ患者たちがあふれている。あるものは拘束され、あるものは力なく横たわり、またあるものは掴み合いの喧嘩を繰り広げている。その光景を眺めるサリエリの顔に浮かんだ表情は恍惚と言って良い。半ば目を閉じながら、サリエリはひとりごちる。
Mediocrities everywhere...I absolve you...I absolve you...I absolve you all...
凡庸なる者たちよ…そなたを赦そう…そなたも赦そう…全ての凡庸さを赦そう…
サリエリは、生涯をかけて焦がれ続けた神に触れることをやめ、自らが神になったのだ。凡庸なるものたちの神。
『天才スピヴェット』では、凡庸さ=全力で避けるべきもの、と母親は言った。それは気を抜いていると自分の全てを蝕んでいくのだと。
『アマデウス』では凡庸さから脱却しようとあがき続けたサリエリが、人生の終わりについに自分が単なる平凡な男であることを認め、神になることで精神のバランスをかろうじて保った。
凡庸であることとはいったい何なのだろう?普通であること、ありふれたこと、平凡であることは何を意味するのだろう?
自分が非凡であると考えたこともないけれど、凡庸であることを嘆いたこともなかった。この命題について、数ヶ月考えてみようと思う。
『天才スピヴェット』について殆ど書いてないやん…。奇想天外なロードムービーかと思いきや、長い一人旅の果てに少年が見つけたものは、予想もつかない不思議なものではなくて、彼の心がずっと求めていたもの。設定がキテレツなのに、描くテーマが普遍的なところが、ぐっと胸に来た。
この映画の中に出てくる、全力で避けるべき凡庸性のメタファーは、名声を得るべく虚構の世界を必死で泳ぎ回る、テレビ界の人たちかもなぁ、と思った。家族の絆は凡庸ではなく、どの家族も、ひとつひとつがかけがえのないものなんだろうなあ。
とりとめもなく終わる。眠気に勝てない。