マジック•モーメント

開放感のある土曜日の夜。今日は休みで、明日も休み。吸う空気まで甘く感じられるみたいだ。

空気も甘い、夏の土曜日の夜、気のおけない先輩と晩御飯を食べた。やや近所に住んでいるので、三十分圏内の近場の駅前に集合。渋谷とか新宿には、疲れるから行かない。

先輩オススメの穴場カレーカフェでご飯を食べ、二人とも最近肩身が狭い喫煙者なので、喫茶店に移動。どうでもいいおしゃべりに花を咲かせる。

先輩の実家は関東でもかなり田舎にあり、以前そこに行って農作業を手伝わせてもらったことがあった。その帰りに、ふと駅で自分たちの姿を振り返ると、よれよれの紺色のTシャツにジーパンがそっくりかぶっていて、二人ともボサボサのひっつめ頭で、ちょっと貧乏くさいけど、達成感で充実した顔つきで目をキラキラさせてるところが、完全なる個人的な先入観だけど自己啓発に励む不幸な女たち然として愕然とした。自己啓発セミナーの帰りの同志というふりをして会話をしては笑い転げた。

斎藤先生の講演、今日も素晴らしかったですね!早起きして行った甲斐がありました。でも、斎藤先生は福岡からいらしてるんでしょ?頭が下がりますねえ。

口からでまかせの会話が思った以上にピタリとハマって、疲れているのに腹筋が痛くなる位笑い、ニヤニヤしたままさよならをした。

と、いうことを、私はすっかり忘れていたのだけど、先輩は覚えていたらしく、あの時面白かったねえ、という話になり、また妄想特急に飛び乗ってしまい、斎藤先生の詳細が更に明らかになった。

  • 斎藤先生は嫁と娘を福岡に残して単身東京に滞在中。
  • 住んでいるのは大泉学園から徒歩20分のあさひ荘という、古いけど日当たりはいいアパートの一階。
  • 毎朝乾布摩擦からスタートする。
  • セミナーの後の打ち上げなどでも、22時位に「終電があるので」と帰ってしまう。
  • 福岡時代は牧師だった。
  • 東京では信者たちに熱狂的に愛される斎藤さんだが、福岡では家族に疎まれている。
  • 斎藤先生の口癖は、「みなさん!」と「形の中で」。
  • 講演で話している際、斎藤先生は興奮すると、「形の中の形の中で」と形が入れ子状態になり、信者はその状態を「斎藤先生のマトリョーシカが出た」と言って心待ちにしている。
  • 斎藤先生グッズは今のところ携帯ストラップがあり、表に斎藤先生の顔写真、裏に「みなさん!」と書いてある。

(全部妄想。)

よくこれだけの嘘っぱちをアドリブで出せたなと思うけど、あの時は何だか神がかった状態になっていて、考える間も無く次から次へと口から言葉が出て行った。恐山のイタコのように、何かと接続して私じゃなくて繋がった何かが喋っているみたいだった。

当然先輩も話を盛りながら涙を流し、身体をふたつに折り曲げながら大笑いをして、先輩が笑うのが嬉しくて私もどんどん妄想を広げっていうスパイラルがずっと続いた。

あー。この瞬間。
マジック•モーメントだ。

この瞬間は、一生、死ぬまで忘れないだろうなと思う瞬間がある。

親戚の実家の庭で、早朝、朝日を浴びながら深呼吸をした時。

祖母が癌でもう余命半年だって告げられた時。

父親と神社の酉の市に行って、帰りに喧嘩をして別々に帰った時。

友達と会社辞めるんだって話を駅ビルの中華バイキングでして、冷めてしまったシュウマイの横でふたりで泣きじゃくった時。

夜、大好きな人と街を散歩していて、人の目を気にしながら街灯の下でキスをした時。

それを私は、三谷幸喜監督の「マジック•アワー」に敬意を表しつつ、マジック•モーメントと呼んでいる。魔法の瞬間。マジック•モーメントになった瞬間、その時間は瞬間凍結のように私の頭の中で普段の記憶とは別のところにしまわれ、折に触れてスローモーション再生されるようになる。

嬉しかったり、悲しかったり、その映像に付随する感情は様々だけど、再生される時に共通して湧き上がる感情は、大量の、胸がつぶれそうな切なさだ。

たぶん、もう2度と全く同じ瞬間には遭遇できない、魔法の瞬間への惜別。同時に、人生において、こんな瞬間を体験できたという喜び。それらがないまぜになって、私はいつも泣きそうになる。

涙をこらえて、顔を上げ、横断歩道を渡って出勤する。月曜日も、頑張ります。