こないだ観た映画『アメリカン・スナイパー』

『アメリカン・スナイパー』を観た。


アカデミー賞での賞レースは若干残念な結果(作品賞を含む6部門ノミネートされたが、音響編集賞のみ受賞)になったが、1月に起きたISIL、いわゆるイスラム国による一連の日本人を人質として拉致し、殺害したとされる痛ましい事件が起きたこともあって、本作は日本人の関心を集め、映画館での成績は2週連続で1位を獲得し、好調のようだ。

この映画を一言でいうと

戦争について描いた映画。それ以上でも、それ以下でもない。

戦争を賛美する映画でも、反戦映画でもない。長くて短い人類の歴史のなかで、人間が生み出した『戦争』という国際政治における外交手段の一形態が、関わる人にどんな影響を及ぼすのか、単に勝敗とその後の関連する国家の成り行きだけでなく、戦争に巻き込まれたり自ら関わっていった人間一人ひとりが、関わったことによりどう変わっていくのかを、偏見なく先入観なく描いている。

こんな人におすすめ

戦争ってものについて考えたことのなかった人におすすめ。映画の作り手(クリント・イーストウッド監督)は、この映画の中で戦争についていいも悪いも結論を描いていない。

戦争について個人が判断する材料のかけらを本編中に示唆するものとして散りばめているだけなので、観る人がそれに気づかなければスルーしてしまうし、気づくか気づかないかも観る人の今までの経験や価値観に基づくから、辿り着く結論も千差万別だ。そういう意味では評価が分かれる映画だと思うし、賛否両論が激化しているのも当然だと思う。

第二次世界大戦以降、多くの日本人が自分ごととして考える機会を逸してきた戦争というものを、曇りなきまなこで考えてみる材料としては、本作は格好の作品といえると思う。

戦争は、多くの人々を不幸に巻き込む。では、何故戦争は今も存在するのか。人間は何故不幸の元凶となる戦争をなくすことができないのか。

戦地では敵国兵を160人殺害し、現地の人たちに悪魔と呼ばれている男が、本国に帰れば妻と子を愛するひとりの男。

彼が内包し、そして内包しきれなかった矛盾こそが戦争の本質であり、その矛盾による綻びは全て、戦争の主たる参加者である国家ではなく、加担する末端の個人単位に押し付けられる。

個人的感想

戦争は喧嘩だ。

人と人のあいだの喧嘩にも、陰でそのひとの悪口を人に吹き込むみたいな陰湿なものから、夕暮れの河原で殴りあったあと2人で土手に倒れこんで肩を組んで笑いあうようなものまで、さまざまなものがあるように、戦争にも大量殺戮や情報戦、私が学生の頃に終わることはないだろうと言われた冷戦など、さまざまな戦争があり、その側面は千差万別だ。

でも、共通するのは、戦争は必ず参加する(もしくは参加させられる)個人単位の人間に影響があるということ。

戦争は通常の外交である話し合いでは解決できないときの外交手段のひとつ(暴力で相手に言うことを聞かせる)であって、そこに善悪は関与してこない。

つまり、善い戦争というものは存在しない。悪い戦争というものも存在しない。ただ、圧倒的な暴力がそこにあるだけで、モラルも、正義も存在していない。ただの外交手段だから。誰かが誰かに自分の言うことを聞かせたいだけだ。ジャイアンのび太をパシリに使うために暴力を振るうのと同じだ。

だから、「この戦争は正義だ」と誰かが言ったら、それはジャイアンが自分を正当化しているにすぎない。誰かが個人なのか、国家なのか、はたまたメディアなのか、軍需産業なのかは場合により異なるけど、要はジャイアンがちょっと知恵を回しただけだ。

ただ、戦争がもたらすあまりにも大きすぎる影響を、私たちが受け止めきれないと思う時、ジャイアンに反旗を翻そうと思う時、ジャイアンに対してどうコミュニケーションをとったら良いのか。ただの話し合いで解決する相手なのか。暴力には暴力を、なのか。もしくは、相手はジャイアンただ一人なのか。

クリント・イーストウッドはスクリーンの向こうから静かに、考えろと我々に促す。

お前にとってのジャイアンは誰だ?
ジャイアンはお前に何をした?考えろ。

お前の人生を脅かすものはなんだ。お前はひとりの人間としてそれをどう受け止め、どう対峙するんだ。考えろ。