人に何かを伝える方法は2種類ある

会社の研修では、大抵学んだことが頭の中で右から左へ流れて消えていくのに、たまにずっと覚えていることがある。

そのうちのひとつが、「人が何かを理解する時、そのアプローチは大きく分けて2種類ある。大まかな概要を掴んでから細かいところを理解していくタイプと、細かい事柄を積み上げて、最後の結論を導き出すタイプである」ということ。

その時にやったグループワークは、チームの1人に目隠ししてもらい、積み木を組み合わせて作ったランダムな形を他のチームメンバーが口頭だけで説明し、目隠しした人に、説明を受けて自分が理解した図形を絵に描いてもらうというもの。

確かに、人によってまず全体のおおまかな形を伝え(三角形に近い、とか)、細かいとこの説明をする人と、細かい説明から始める人(図形の下部は4つの円筒が横に並んでいる、とか)と、2種類に、わかれた。

大抵の人はどちらかがより得意で、でも別に両者間に優劣はない。研修で強調していたのは、仕事で関わる相手がどっちのタイプか見極めて、相手の理解しやすいアプローチでコミュニケーションをとることが大事、というものだった。

見極められるかー!そんなの!

と研修を受けている時は脳内でツッコンだが、何故かこれが記憶に残り、折にふれ考えているうちに、確かに、と思うことが多くなっていった。

上記の2種類のアプローチは、つまり演繹法帰納法だ。

私は最初に全体像を把握してから、細かいところを埋めていくタイプらしい。だから、仕事の引き継ぎなどで、目的も何も知らされず「まず最初にこのファイルを開いて〜、ここのセルの値をこのファイルからコピペしていって」という具体的すぎる引き継ぎのやり方が苦痛だった。

まず、この業務で何をするのか。この業務が仕事のどの部分に相当して、これが完了すると何ができるのか、っていう目的を教えてもらってから、ステップを教えてもらうほうがやりやすいと思った。

でも世の中にはそうじゃないやり方もあるらしい、と腑に落ちたのは、お茶を習った時だった。

先生は、細かい作法をいちいち教えてくれる。お茶室に入る時、扇子を自分の目の前に置いて一礼する。部屋に入る時、歩き出す時は左足から。畳のヘリは踏まない。この器は左手で持つ。全部がとても細かく決められていて、でも何故そうしなければいけないかは教えてくれない。ただ間違えた時に「そうじゃない」と指導される。

それが不満で、もっと分かりやすく教えて欲しいと思った。なんでこう動くのか。最後にどういう形態になるのが望ましいのか。先生が単に意地悪だから、わざとそういう教え方をしているのかと思った。

それが違う、と気づいたのは1年くらいして、一通りの所作が身につきはじめた時だ。

訳も分からず、この時はこう動くもの!と頭じゃなく、身体に叩き込まれた所作の意味が身体で分かり始めたのだ。

この時、左手で器を持つのは、その後の動きをするにあたってそれが一番合理的だから。ここで何歩で歩かなきゃいけないのは、その後自分の位置に座る時にそこに至る最も効率的でなおかつ美しい動きだから。

ただ気まぐれに「そういう風にしたほうが伝統的っぽいから」みたいな理由ではなく、全部の動きにはその後につながっていく理由があって、その所作を流れで見ると全く無駄がなく、簡潔で、美しいのだった。

なるほどなーと思った。

これを全部理由つきでいちいち説明してたら全然前に進まないし、あれ、この後はこうしなきゃいけないからここでは…と考えながらやっていると、頭がパンクする。

また、理由はおいておいて、有無を言わさずディテールを身体に叩き込んでお稽古に臨むと、その理由が自ずと理解できる時が来る。その気づきは経験に基づくものだから、先生から口頭で教えてもらうだけよりも、自分のお腹の底に沁みて、より理解が深くなるし、忘れなくなる。

先生は意地悪なんじゃなくて、その方が結果的に速く深く理解できる教え方だから、多分説明したい時もこらえて、あえて口を出さずに間違えた時だけ指導してくれていたんだな、と分かったら、ちょっとじーんとした。

誰かに何かを伝えようとする時は、どっちが得意な人なのかを考えながら伝えようと思いました。