いやなものはいやだ

嫌いな事や物はある程度万人に共通すると思う。例えば、血が出るまで殴られたいと言う人はあまりいないと思うし、飢餓状態が至福の瞬間、という人もそうそうお目にかかれないと思う。

だが、その嫌いという気持ちが度を越えて大きい、別の言葉で言うなら、大多数の人よりもだいぶ抜きん出て、ある意味「ちょっと病的じゃない?」という対象というのは、千差万別であり、個人に依るところが大きいと最近考えている。

例えば、火を見ることが病的に怖くて、隣の誰かが火をつけたタバコを灰皿に置きっ放しにしていることに耐えられず、勝手に消してしまう。例えば、叩かれることに病的に怯えていて、電車で隣にいるひとが頭を掻こうと手を上げただけで仰け反り、両手で自分の頭を抱えて防御姿勢を取る、などである。

私の場合、度を越えて嫌いなものが3つある。

1:無視されること。


無視されるのは誰しも面白くないだろうけど、私の場合は自分でも「どうして?」と不思議になるほど怒りを感じ、胸の内が真っ黒に塗り潰される。それが「たまたまうっかり」メールの宛先に「私だけ」を入れ忘れた、的な故意でないものであったとしても、絶対に許せないと感じる。

そういう自分はどうなんだ、と振り返ると、人の顔や名前を覚えるのは苦手だし、視力が良くなくて道端で知ってる人の前を素通りし、「さっきすれ違ったよね」と言われるなどはしょっちゅうのため、本当に勝手だなあと自分でも思うが、あ、今無視された、と思った時の怒りは客観的に見ても理不尽だと思うので、これは病的に嫌いなんだと考えて良いと思う。

2:映画、TVで人間や動物が殺される場面を見ること。


そういう話をすると、映画通を気取る人などから苦笑まじりに「あれは作り事で、本当に殺されたり、怪我をしているわけではないから、何も怖がる必要はない」とありがたいアドバイスをいただいたりもするけれど、そもそもフィクションであることは私だっていい大人なので知っている。

真実、虚構に関わらず、何故生き物が命を奪われるという本能に反する瞬間、平易な表現を使えば「自分がされたら嫌なこと」を好んで見たいと思うのか、その理由が分からない。言葉を選ばずに言えば、私の言い分としては「そんなの好きこのんで観るなんて、性格歪んでんじゃないの?」である。

でもこれも多数の人は平気な顔で観ているのを映画館などで観察するにつけ、私の忌避度合いは異常だという結論に達した。

ちなみに、殺戮の瞬間がぼやかされたものであっても(例えば、画面が切り替わって銃声が聞こえるだけ、とかでも)嫌い度合いは変わらないし、ストーリーの主題がそこにはなく、なおかつ話の展開上避けられないものであったとしても、いやなものはいやだ。観たくない。

3:毛虫、芋虫、青虫など、柔らかい系の虫全部を見ること。


よくゴキブリを嫌いな人が、ゴキブリと発音するのも嫌だ、という話を聞くが、私は毛虫、という漢字を書くのも背筋がぞっとするくらい嫌いだ。ホームセンターなどの園芸コーナーで、殺虫剤売り場は絶対に近寄らない。殺虫スプレーに毛虫の写真やイラストがプリントされているからだ。

道の真ん中に毛虫が落ちていたために、その道を通れず、遠回りしたことは数知れずある。

小学生の頃、下校時になんか手がサワサワするなあと思って手を見たら、毛虫がついていたことがあった。究極に恐怖している時に人間は声を出せないということを、あの時学んだ。狂ったように手を振り回したら、反対側の手に持っていた手提げ鞄に奴はうまいことランディングし、半狂乱で鞄を振ったが全くもって取れず、泣きながら鞄を自分の体から最大限離して(すなわちキョンシー風に鞄を体の前に捧げ持った感じで)帰宅した。

ギャン泣きの私の声を聞いて、すわ何事か!と家から飛び出してきた母の足元に、あれだけ吸着していた奴はポトリと落ち、母はそれを即座に踏み潰した。それを見て、私は更に火がついたように泣いた。

これらを考えると、もし私に前世があるのなら、古代中国にあったという世にも恐ろしい死刑方法である、内側がツルツルすべる巨大な壺に入れられて、上から大量の毛虫を落とされ、叫んでも叫んでも誰も答えてくれないまま、毛虫で窒息死した最期だったのかもなぁ、と思う。