自由な魂を持つひと

懐かしい人に会った。

昔々、私が新卒で入った会社であたふたしていた頃(あたふたは今も変わらない)、派遣社員として入って来られた、年上のお姉さん。

豊富であろう経験に裏打ちされた、常に冷静な姿勢。私みたいにあたふたすることもなく、突発事態にも人によって態度を変えたりもせず穏やかに対処し、かと言ってお高くとまることもなく、私のくだらない話にもバカ笑いしてくれる懐の深さで、要するに私はその人が大好きだった。だった、というか、今も大好きだ。

東京の、わりと都心の一等地に位置していた、一応外資系にカテゴライズされていた(実際は外資系ではなく、関西系だったけど)私が働いてる会社で働く前は何してたの?と聞くと、「あのねえ、色々やってたんだけどね」と首を傾げて、言った。

「旅館の仲居してた。白浜の温泉旅館で」

仲居?なんで?

「お金を貯めたかったの。住み込みだったら貯まるかなあ、と思って」

この会話で、私は完全にやられてしまった。何てつかみどころがなくてミステリアスなひとなんだろう。これで私が男だったら、完璧に恋に落ちていたと思う。

お金が貯めたいから住み込みの仕事をする、という、シンプルでプリミティブな感じが、「仕事を通して自己実現」とか「成長のためにどんな仕事をすべきか」とか考えていた、大した経験もないくせに頭でっかちな私にはとても衝撃的で、働くってそうやって決めてもいいんだ、とものすごく解放感を覚えた。

彼女はいつも「しなやか」という形容詞がぴったりの人生を楽しんでいて、引っ越したの、というからどこに?と聞くと、高麗川(都心からは片道二時間かかるところ)、と答えたり(理由は広い部屋に住みたかったからだそうだ)、初めて交際することになった人のことを相談したら、まるで初夏の風のような明るさで「あのねえ、渋谷の⚪︎⚪︎っていうラブホがきれいでオススメだよー」と教えてくれたり、驚かされることが多かった。

まるで、この世に不可能はないという軽やかな足取りで、楽しげに生きていた。私が「いやでも普通はさー」と考えちゃうことを「何でダメなの?できるじゃん、こうすれば」と笑いながら教えてくれるさまは、何かに似ていて、それが何なのかは分からなかったけど、私が会社を辞めて、会わなくなってからもずっと印象に残ったまま、時々年賀状をやりとりしたり、SNSでやり取りしたり、が続いていた。

ツイッターで彼女が東京に来ることを知った私は会いたい!と思い、連絡して、今夜の約束を取り付けた。

多分十年以上ぶりに会う彼女は、白髪ができて、老眼になっていたけど、昔のままだった。

変わらない軽やかさで、「今夜はネットカフェに泊まるの。たぶん、神田のネットカフェ」と言う彼女に思わず「うちに泊まれば?」と言ったけど、「ネットカフェが好きなんだ」と笑う彼女にそれ以上強くは言えず話題を変えた。明日はひとりで東京ディズニーランドにクリスマスイルミネーションを見に行くと言う。ひとりで、ディズニーランド?と聞くと、うん、楽しいよ、とビールを飲みながら答える。

何に似ているか、今日分かった。江國香織さんの小説「落下する夕方落下する夕方 (角川文庫)

落下する夕方 (角川文庫)

に出てくる、華子に似ているんだ。主人公は別の女の人で、この女の人が長く同棲している彼の健吾、という男の人がどうしようもなく恋に落ちてしまう相手が華子だ。

次に何をするか予想出来なくて、気がついたらもう目の前からいなくなっていて、知らない遠い場所から絵葉書が届いたりする。その子を好きになってしまったら、翻弄されるだけされて、どんどん体力を奪われ、翻弄されればされるほど彼女に執着してしまい、気がついたら彼女は消えてしまう。

そんな小悪魔的な要素を持ちながら、本人は太陽の下に干したタオルのように清潔でふわふわ柔らかくて、誰かを陥れてやろうとか、いじわるなところは全くない。

ああ、やっぱり私はこのひとが大好きだ。私がもしも男だったら、絶対にこの人に骨抜きにされてダメな男にされてしまうだろうから、自分が男でないことに感謝しながら、これからも、同性の傍観者として彼女の踊るような生き方を目の当たりにできる喜びを噛み締めながら、冷え込む東京の街で「またね」とお別れをした。